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うえ‐しろ【植(え)代】うゑ‐🔗⭐🔉
うえ‐しろ【植(え)代】うゑ‐
田植えの直前に行う代掻(しろか )き。荒代(あらしろ)・中代(なかしろ)の次に行う作業。植代掻き。
ウエス🔗⭐🔉
ウエス
《wasteから》機械の油ふきなどに用いる布。
うえ‐すがた【上姿】うへ‐🔗⭐🔉
うえ‐すがた【上姿】うへ‐
公家が殿上にいるときの姿。直衣(のうし)を着用した姿。
下姿(したすがた)。
下姿(したすがた)。
うえすぎ【上杉】うへすぎ🔗⭐🔉
うえすぎ【上杉】うへすぎ
姓氏の一。
うえすぎ‐うじのり【上杉氏憲】うへすぎうぢのり🔗⭐🔉
うえすぎ‐うじのり【上杉氏憲】うへすぎうぢのり
上杉禅秀(うえすぎぜんしゆう)
上杉禅秀(うえすぎぜんしゆう)
うえすぎ‐かげかつ【上杉景勝】うへすぎ‐🔗⭐🔉
うえすぎ‐かげかつ【上杉景勝】うへすぎ‐
[一五五五〜一六二三]安土桃山時代の武将。上杉謙信の養子。豊臣秀吉に仕え、会津若松一二〇万石の領主、五大老の一人となった。関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、出羽米沢三〇万石に移封。
うえすぎ‐けんしん【上杉謙信】うへすぎ‐🔗⭐🔉
うえすぎ‐けんしん【上杉謙信】うへすぎ‐
[一五三〇〜一五七八]戦国時代の武将。越後守護代長尾為景(ながおためかげ)の子。初め景虎(かげとら)・政虎、のち輝虎。永禄四年(一五六一)上杉憲政(のりまさ)から譲られて関東管領となり、上杉氏を名のった。謙信は法名。北条氏康(ほうじよううじやす)と争っての小田原攻め、武田信玄との川中島の合戦などを経て織田信長と対立したが、業半ばで病死。
うえすぎ‐さだまさ【上杉定正】うへすぎ‐🔗⭐🔉
うえすぎ‐さだまさ【上杉定正】うへすぎ‐
[一四四三〜一四九四]室町中期の武将。扇ヶ谷(おうぎがやつ)上杉持朝(もちとも)の子。太田道灌(おおたどうかん)に補佐されて兵威を振るったが、上杉顕定(あきさだ)の中傷を信じて道灌を暗殺。のち顕定との戦いの陣中で死亡。
うえすぎ‐しんきち【上杉慎吉】うへすぎ‐🔗⭐🔉
うえすぎ‐しんきち【上杉慎吉】うへすぎ‐
[一八七八〜一九二九]憲法学者。福井の生まれ。東大教授。君権絶対主義を唱え、天皇機関説の美濃部達吉と論争。のち、右翼団体を指導。著「新稿憲法述義」など。
うえすぎ‐ぜんしゅう【上杉禅秀】うへすぎゼンシウ🔗⭐🔉
うえすぎ‐ぜんしゅう【上杉禅秀】うへすぎゼンシウ
[?〜一四一七]室町前期の武将。関東管領。本名、氏憲(うじのり)。禅秀は法名。応永二三年(一四一六)鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)にそむき、敗れて自殺(上杉禅秀の乱)。
大辞泉 ページ 1256。