複数辞典一括検索+

恩讐の彼方に     →恩讐の彼方に🔗🔉

恩讐の彼方に     →恩讐の彼方に  市九郎(いちくろう)は、主人の切り込んで来る太刀(たち)を受け損じて、左の頬から顎へかけて、微傷ではあるが、一太刀受けた。自分の罪を――たとえ向こうからいどまれたとはいえ、主人の寵妾(ちようしよう)と非道な恋をしたという、自分の致命的な罪を、意識している市九郎は、主人の振り上げた太刀を、必至な刑罰として、たとえその切先(きつさき)を避くるに努むるまでも、それに反抗する心持ちは、少しも持ってはいなかった。彼は、ただこうした自分の迷いから、命を捨てることが、いかにも惜しまれたので、できるだけは逃(のが)れて見たいと思っていた。それで、主人から不義を言い立てられて斬り付けられた時、あり合わせた燭台を、早速の獲物(えもの)として主人の鋭い太刀先を避けていた。が、五十に近いとはいえ、まだ筋骨のたくましい主人が畳みかけて切り込む太刀を、攻撃に出られない悲しさには、いつとなく受け損じて、最初の一太刀を、左の頬に受けたのである。が、いったん血を見ると、市九郎の心は、たちまちに変わっていた。彼の分別のあった心は、闘牛者の槍を受けた牡牛のように荒(すさ)んでしまった。どうせ死ぬのだと思うと、そこに世間もなければ主従もなかった。今までは、主人だと思っていた相手の男が、ただ自分の生命(いのち)を、脅かそうとしている一個の動物――それも凶悪な動物としか、見えなかった。彼は奮然として、攻撃に転じた。

広辞苑 ページ 24004 での恩讐の彼方に     →恩讐の彼方に単語。