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それから     →それから🔗🔉

それから     →それから  誰か慌(あわ)ただしく門前を馳(か)けて行く足音がした時、代助(だいすけ)の頭の中には、大きな俎下駄(まないたげた)が空(くう)から、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退(とおの)くに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。  枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちている。代助は昨夕(ゆうべ)床の中で慥(たし)かにこの花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ゴムまり)を天井裏から投げ付けたほどに響いた。夜(よ)が更けて、四隣(あたり)が静かな所為(せい)かとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋(あばら)のはずれに正しく中(あた)る血の音を確かめながら眠(ねむり)に就いた。  ぼんやりして、少時(しばらく)、赤ん坊の頭ほどもある大きな花の色を見詰めていた彼は、急に思い出したように、寐(ね)ながら胸の上に手を当てて、また心臓の鼓動を検(けん)し始めた。寐ながら胸の脈を聴いて見るのは彼の近来の癖になっている。動悸は相変らず落ち付いて確(たしか)に打っていた。彼は胸に手を当てたまま、この鼓動の下(もと)に、温かい紅(くれない)の血潮の緩く流れる様を想像して見た。これが命であると考えた。自分は今流れる命を掌(てのひら)で抑えているんだと考えた。それから、この掌に応える、時計の針に似た響は、自分を死に誘(いざな)う警鐘のようなものであると考えた。この警鐘を聞くことなしに生きていられたなら、――血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかったなら、如何に自分は気楽だろう。如何に自分は絶対に生を味わい得るだろう。けれども――代助は覚えず悚(ぞつ)とした。彼は血潮によって打たるる掛念(けねん)のない、静かな心臓を想像するに堪えぬほどに、生きたがる男である。彼は時々寐ながら、左の乳の下に手を置いて、もし、此所(ここ)を鉄槌で一つ撲(どや)されたならと思う事がある。彼は健全に生きていながら、この生きているという大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さえある。

広辞苑 ページ 24081 でのそれから     →それから単語。