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壇浦兜軍記 →壇浦兜軍記🔗⭐🔉
壇浦兜軍記 →壇浦兜軍記
宵に起き旰(ひた)けて食し。夜半(よわ)に念(おも)ひ朝(あした)に行ふ故(かるがゆえ)に。虞舜の居(きよ)は三年にして都(と)をなし。仲尼の政(まつりごと)は暮月(ぼげつ)おのづから理(おさま)るとは。今この時よ武将の中興。源の朝臣頼朝卿順(まつろ)はざるを禁(いまし)め。賞罰を糺し絶えたるを継ぎ廃(すた)れるを起し。民を安んじ衆を和(か)す七徳八教谷(やつ)七郷(ごう)。賑はふ民の鎌倉御所。大蔵(おおくら)の郷(ごう)に。営居ある。さしもさばかり手強(てごわ)かつし木曾の冠者義仲は。江州粟津の泡と消ゆ平家は亡き名を文字が関に残し。治国平天下の功古今に秀で。未だ家に先蹤(せんじゆう)なき大納言の大将。六十余州の総追捕使。日本弓馬の棟梁となり給ふ事。併し仏神(ぶつじん)の擁護(おうご)なりと。神祇を礼(らい)し百霊を懐(なつ)け給ふ余り。秩父の庄司重忠を以てさいつ頃より。南都東大寺大仏殿を再興あり。既に伽籃。成就(じようじゆう)せりと。本多の次郎近経を以て訴ふれば。根井(ねんい)の太夫希義(まれよし)岩永左衛門尉致連(むねつら)。其外当日の諸役人。膝を屈し相詰めらる。又者(またもの)なれども本多の近経。召しによつて百分一に写せし伽籃の絵図。御座近くしつらひ掛け仏閣の高広(こうこう)。荘厳の次第外に記し捧ぐれば。逐一(ちくいつ)に上覧あり。重忠は仏智にも叶ひしか。わが思ふ如く造進せし条。嬉しや解脱の善根を植ゑたりと。
広辞苑 ページ 24084 での【壇浦兜軍記 →壇浦兜軍記】単語。