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将門記 →将門記🔗⭐🔉
将門記 →将門記
それ聞かく、かの将門(まさかど)は、天国押撥御宇(あめくにおしはるきあめのしたしろしめす)柏原(かしわばら)天皇五代の苗裔(びようえい)、三世高望王(たかもちのおおきみ)の孫なり。その父は、陸奥鎮守府将軍平朝臣良持(よしもち)なり。舎弟下総介平良兼(よしかね)朝臣は、将門が伯父なり。しかるに良兼は、去(い)ぬる延長九年をもて、聊(いささ)か女(おむな)の論(あげつらい)によて、舅甥(おじおい)の中すでに相違へり。(中略)
将門、同月十五日をもて上毛野(かみつけぬ)に遷る次(ついで)に、上毛野介藤原尚範(ひさのり)朝臣、印鎰を奪はれ、十九日をもて、兼ねて使を付けて官堵に追ふ。その後、府を領し庁に入り、四門の陣を固めて、且つ諸国の除目を放つ。時に一(ひとり)の昌伎(かむなぎ)あり、云へらく、八幡大菩薩の使と
(くちばし)る。朕が位を蔭子(おんし)平将門に授け奉る。その位記は、左大臣正二位菅原朝臣の霊魂表すらく、右八幡大菩薩、八万の軍を起して、朕が位を授け奉らむ。今すべからく卅二相の音楽をもて、早くこれを迎へ奉るべしといへり。
ここに将門、頂(いただき)に捧げて再拝す。いはむや四の陣を挙(こぞ)りて立ちて歓び、数千併(しかしなが)ら伏し拝す。また武蔵権守并に常陸掾藤原玄茂(はるもち)等、その時の宰人として、喜悦すること、譬ば貧人の富を得たるがごとし。美咲(びしよう)すること、宛(さなが)ら蓮花の開き敷くがごとし。ここに自ら製して諡号(いみな)を奏す。将門を名(なづ)けて新皇(しんおう)と曰ふ。(中略)
時に新皇、本陣に帰るの間、咲下に立つ。貞盛・秀郷等、身命を弃(す)てて力の限り合ひ戦ふ。ここに新皇は、甲冑を着て、駿馬を疾(と)くして、躬自ら相戦ふ。時に現(うつつ)に天罰ありて、馬は風のごとく飛ぶ歩みを忘れ、人は梨老が術(みち)を失へり。新皇は暗(そら)に神鏑に中(あた)りて、終に託鹿の野に戦ひて、独り蚩尤(しゆう)の地に滅びぬ。天下にいまだ将軍の自ら戦ひ自ら死ぬることはあらず。誰か図(はか)らむ、少過を糺さずして大害に及ぶとは。私に勢を施して将に公の徳を奪はむとすとは。よて朱雲の人を寄せて長鯢の頸を刎(き)る。便(すなわ)ち下野国より解文(げぶみ)を副(そ)へて、同年四月廿五日をもて、その頸を言上す。ただし常陸介維幾(これちか)朝臣并に交替使は、幸に理運の遺風に遇ひて、便ち十五日をもて任国の館(やかた)に帰ること、譬ば鷹の前の雉(きじ)の野原に遺(のこ)り、俎(まないた)の上の魚の海浦に帰るがごとし。昨日は暫く凶叟の恨みを含み、今(きよう)は新たに亜将の恩を蒙れり。
凡そ新皇名を失ひ身を滅ぼすこと、允(まこと)にこれ武蔵権守興世王・常陸介藤原玄茂等が謀の為すところなり。哀しいかな、新皇の敗徳の悲、滅身の歎は、譬へば開かむと欲する嘉禾の早く萎み、耀かむとする桂月の兼ねて隠るるがごとし。(中略)
賊首将門が大兄(このかみ)将頼(まさより)并に玄茂(はるもち)等、相模国に到りて殺害せられたり。次に、興世王は上総国に到りて誅戮せられたり。坂上遂高(かつたか)・藤原玄明(はるあき)等は、皆常陸国にして斬らる。(下略)
〈日本思想大系8〉

広辞苑 ページ 24140 での【将門記 →将門記】単語。