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陸奥話記 →陸奥話記🔗⭐🔉
陸奥話記 →陸奥話記
六箇郡の司(つかさ)に、安倍頼良(あべのよりよし)といふ者ありき。これ同忠良(ただよし)が子なり。父祖倶(とも)に果敢にして、自ら酋長(おさ)を称し、威権甚しくして、村落をして皆服(したが)へしめ、六郡に横行して、庶士を囚俘(とりこ)にし、驕暴滋蔓にして、漸くに衣川の外に出づ。賦貢を輸(いた)さず、徭役を勤むることなかりき。代々己を恣にし蔑(ないがしろ)にすといへども、上制すること能(あた)はず。永承の比(ころおい)、大守藤原朝臣登任(なりとう)数千の兵(つわもの)を発(おこ)して攻む。出羽の秋田城介平朝臣重成前鋒なり。大守夫士(おとこ)を率ゐて後(しりえ)を為す。頼良諸(もろもろ)の部の囚俘(とりこ)をもて拒(こば)み、大に鬼切部(おにきるべ)に戦ひぬ。大守の軍(いくさ)敗績し、死せる者甚だ多かりき。
ここに朝廷議(はかりこと)ありて、追討将軍を択びぬ。衆議の帰(よ)りしところは、独り源朝臣頼義(よりよし)にあり。頼義は河内守頼信(よりのぶ)朝臣の子なり。性(ひととなり)沈毅にして武略に多(まさ)り、最も将帥の器(うつわもの)なり。長元の間、平忠常(ただつね)は坂東の奸雄として、暴逆を事と為しぬ。頼信朝臣追討使と為(な)りて、忠常を平らぐ。頼義軍旅にあるの間、勇決は群(ともがら)を抜き、才気は世に被(こうぶ)りぬ。坂東の武(たけ)き士(おのこ)、属(つ)かむことを楽(ねが)ふ者多し。小一条院の判官代に為されぬ。院畋猟(かり)を好みたまへり。野の中に赴(はし)るところ、麋(おおじか)鹿狐兎は、常に頼義のために獲(と)られぬ。好みて弱き弓を持てども、発(はな)ちしところの矢は飲羽せずといふことなし。たとひ猛き獣なりといへども、絃(ゆみづる)に応(こた)へて必ず斃れぬ。その射芸の功(たくみ)、人に軼(す)きたることかくのごとし。(中略)
貞任は剣(つるぎ)を抜きて官軍を斬る。官軍鉾(ほこ)をもて刺しつ。大なる楯(たて)に載せて、六人将軍の前に舁(か)きつ。その長(たけ)六尺有余、腰の囲(めぐり)七尺四寸、容貌魁偉にして、皮膚肥え白し。将軍罪を責めつ。貞任一たび面(むか)ひて死せり。また弟重任(しげとう)を斬りつ〈字は北浦六郎〉。ただし宗任(むねとう)は自ら深き泥(こひじ)に投(おもぶ)きて、逃げ脱(のが)れ了りぬ。貞任が子の童(わらわ)は年十三歳、名は千世童子と曰ふ。容
美麗なり。甲を被(き)て柵の外に出でて能く戦ひつ。驍(いさ)み勇(たけ)きこと祖(おおじ)の風あり。将軍哀憐して宥さむと欲す。武則進みて曰く、将軍小さき義を思ひて後の害を忘るることなかれとまうせり。将軍頷(うなず)きて遂に斬りつ〈貞任年卅四にして死去(し)せり〉。城の中の美女数十人、皆綾羅を衣(き)、悉くに金翠を粧(よそ)ひて、煙に交りて悲しび泣けり。出して各軍の士(おのこ)に賜ひつ。ただし柵の破るる時、則任(のりとう)が妻(め)独り三歳の男を抱き、夫に語りて言はく、君まさに歿(し)なむとす。妾(おうなめ)独り生くることを得ず。請はくは君の前に先づ死せむことをといへり。児(ちご)を抱きながら自ら深き淵に投げて死につ。烈女なりと謂ひつべし。その後幾(いくばく)ならずして、貞任が伯父(おじ)安倍為元〈字は赤村介〉、貞任が弟家任帰降しつ。また数日を経て宗任等九人帰降せり。(下略)
〈日本思想大系8〉

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