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難太平記 →難太平記🔗⭐🔉
難太平記 →難太平記
六波羅合戦の時、大将名越(なごし)討たれしかば、今一方の大将足利殿、先皇に降参せられけりと太平記に書きたり。かへす
無念の事也。此の記の作者は宮方(みやかた)深重(しんじゆう)の者にて、無案内にて押て此の如く書きたるにや、寔(まこと)に尾籠のいたりなり。尤切出さるべきをや。すべて此の太平記、事あやまりも空ごともおほきにや。昔、等持寺にて法勝寺の恵珍上人、此の記を先三十余巻持参し給ひて、錦小路殿の御目にかけられしを、玄恵法印によませられしに、おほく悪(あしき)ことも誤も有りしかば、仰に云、是は且(かつうは)、見及ぶ中にも以の外ちがひめおほし。追て書入れ、又切出すべき事等有り、其程外聞有るべからざるの由仰有し。後に中絶也。近代重て書続ぎけり。次でに入筆共を多く所望しかゝせければ、人の高名、数をしらず書けり。さるから随分高名の人々も且勢ぞろへ計に書き入れたるもあり、一向略したるも有るにや。今は御代重なり行きて、此の三四十年以来の事だにも跡形無き事ども雅意に任せて申すめれば、哀々(あわれあわれ)、其の代の老者共、在世に此の記の御用捨あれかしと存ずる也。平家は多分後徳記のたしかなるにて書きたるなれども、それだにもかくちがひめありとかや。まして此の記は、十が八九はつくり事にや。大かたはちがふべからず。人々の高名などの偽りおほかるべし。まさしく錦小路殿の御所にて玄恵法印読みて、其の代の事どもむねとかの法勝寺上人の見聞給ひしにだに、此の如き悪言有りしかば、唯をさへて難じ申すにあらず。(下略)
〈群書類従〉


広辞苑 ページ 24163 での【難太平記 →難太平記】単語。