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赤穂義人録     →赤穂義人録🔗🔉

赤穂義人録     →赤穂義人録  大高忠雄、源五と号す。秩百石。近侍祗候〈ここに近習と云ふ〉。忠雄の母は寡居し、髪を剃りて尼と為り、貞立と曰ふ。寔(こ)れ小野寺秀和の姉なり。赤穂の滅ぶるや、忠雄、母を家に留めて京に適く。明年九月に至りて、遂に京を去りて東都に赴く。母に書を貽(おく)りて曰く、「某兄弟膝下を違(さ)り千里して東する所以の者は、一は先君の仇を復し、以て公家の恥を雪(すす)ぐに在り、一は人臣の義を明らかにし、父祖の名を辱めざるに在り。これ某の宿昔の心事にして、嘗て大人のために道(い)ひし所なり。(中略)その君のためにするに急なるや、或は親を滅ぼし族を覆して、以て国家の急に赴く者あり。父母の命を絶つと雖も恤(うれ)へず。その然る所以の者は何ぞや。またいはゆる義なる者違ふべからざるを以ての故なり。(中略)ああ言は尽くることありて、情は尽くることなし。いま永く訣るるに当たりて、紙に臨みて涕泣し、云ふ所を知らず」と〈この書、原文は国語を以てこれを為る。いまその意を取りてこれを訳す。独り左丘明・太史公の筆力の以てこれを発するなきを恨むのみ。ただそのいはゆる「人臣、君のためにするに急なるや、父母の命を絶つとも恤へず」と云ふ者は、指す所何らの事たるかを知らず。(中略)いま忠雄の言ふ所を詳らかにするに、その語意は、人臣、君を奉ずれば、已むを得ざることあり、害をその父母に加ふること、本朝の源義朝、及び近世の北条氏の臣松田左馬助の徒の若きを謂ふに似たり。これ天倫を害し、仁義を賊ふの甚だしき者なり。忠雄あに以て人臣変に処するの道まさに然るべしと為すか。蓋し良雄・忠雄の徒は、みな武人にして学術なし。ただ武田の術を宗とし、孫呉の兵を習ふことを知るのみ。故にその見る所の鄙陋俗なることかくの如し。また惜しむべきなり。然れども近世の士大夫、人の本朝に立つに、徒らに居を懐ひ禄を貪ることを知るのみにして、節に伏し義に死するに至りては、則ち視て以て度外の事と為す。往往みなこれなり。いま赤穂は爾の国を以てして、その俗、気概あり、名節を尚ぶ。故にその終りに臨みて志を言ふや、一にはいはゆる義なる者は違ふべからずと曰ひ、一にはただこの生き易からざる者は忘るべからずと曰ふ。また以て平生の存する所を見るに足る。ああ宜(うべ)なるかな、その能く大節を全うして、名、天下に称せらるるや。あに徒然ならんや。而してその見る所の鄙陋俗は、則ち姑(しばら)く置きて論ぜずして可なり〉。死する時、年三十二。                             〈日本思想大系27〉

広辞苑 ページ 24192 での赤穂義人録     →赤穂義人録単語。