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北槎聞略     →北槎聞略🔗🔉

北槎聞略     →北槎聞略 (北槎聞略引)寛政四年壬子歳九月、伊勢国の漂人三名を魯西亜国の使舶東蝦夷地に送来る。漂人等はじめ駿州の洋(おき)より彼国の属島に漂着、年を逐て彼部中を経歴し、王都に到り女王に謁し、恩允(ゆるし)を得て専舶を差遣し皇朝に送還す。蝦夷惣轄松前若狭守源通広東都の上聴に達し、やがて御使下され、彼使臣等労賚(ろうらい)帰国、事訖りて後漂人を東都に召さる。臣国瑞(くにあきら)、内旨を奉じ、彼国制、地俗、居盧、飲食、諸瑣事に至るまで詳問訊究し、更に中国の紀載西洋の書冊に出るものと参訂攷補して附按となし、書十二巻図二巻を作り、甲寅の秋に至りて書成て上る。謹で起本の提要を記す事しかり。   寛政六年(一七九四)甲寅八月                                臣国瑞謹識 ○人物風俗  魯西亜(ロシイヤ)の人物はたけ高く白皙(いろしろ)く、眼中淡碧(うすあお)にして鼻至て高く、髪の色栗殻色(くりいろ)なり。胎髪(うぶかみ)より養ふ故にはなはだ細くやはらかなり。鬚は貴賤ともに剃。但農夫抔にまゝ鬚を剃ざるものあり。(中略)  大抵匍匐(はい)ありくころまでは、肩より足まで布にてくると巻おくなり。匍匐(はう)ほどになれば、小児の脇の下を支(ささゆ)るほどに架(わく)を造り、上を板にてはり、正中(まんなか)に孔を穿り、孔のまはりを皮或は布にてはり綿を入、わくの下の方には四隅に機(からくり)を設け、左右前後自在に転(めぐ)り、児のふり向方にわくの転るやうにして、児を上面の孔よりわくの内に入るれば、脇(わきのした)を支へてわくの内に立居るなり。中にていかやうにも足を動かせば、機転じて自然にありくなり。かくすれば格別に早く歩習ふといふ。一躰敷石、磚(しきがわら)の家なれば、歩みならひに随分ころばざる防をなす事なり。小児はついたけの袗(じゆばん)をきせ、白布の頭巾をきせおくなり。歩みならふころよりゆるき袴をきせ、まちを広く切あけて両便の時に便ならしむ。男女ともに十二歳よりは成人の服をきするなり。  夫婦連行には必ず臂(ひじ)を聯て行。賤人(かるきもの)はしからず。すべて人家に行に、主人出逢ふほどなれば妻子も一同に対面するなり。客を請じて食卓(しつぽく)にかゝる時は、主人の妻上客の手を取て座に誘ふ。二客三客をば娘(よめむすめ)など手を取事なり。座に着く時は婦人を上首(かみざ)におく。客来れば先仏前を拝し、其後主人に接語(あいさつ)するなり。帰る時も先仏を拝し、扨(さて)主人に暇を乞て帰るなり。仏を拝するには大指(おおゆび)と食指(ひとさしゆび)、中指を撮合(つまみあわ)せ、ヲスポジ・ポミルイと唱へながら、額、胸、右の肩、左の肩を押なり。諳厄利亜(アンゲリヤ)の人は額、胸、左の肩、右の肩と押となり。(下略)                                 〈岩波文庫〉

広辞苑 ページ 24196 での北槎聞略     →北槎聞略単語。