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広辞苑の検索結果 (5)

ないとう‐こなん【内藤湖南】🔗🔉

ないとう‐こなん内藤湖南】 東洋史学者。名は虎次郎。陸奥毛馬内(秋田県鹿角市)生れ。大阪朝日新聞などの記者を経て京大教授。シナ学の発展に貢献。著「支那絵画史」「支那論」「近世文学史論」「日本文化史研究」「東洋文化史研究」など。(1866〜1934) ⇒ないとう【内藤】

ないとう‐じょうそう【内藤丈草】‥ヂヤウサウ🔗🔉

ないとう‐じょうそう内藤丈草‥ヂヤウサウ 江戸前期の俳人。蕉門十哲の一人。尾張犬山藩士。別号、仏幻庵など。官を辞して山城深草に仮寓し芭蕉に師事。作風は高雅洒脱。著「寝ころび草」など。(1662〜1704) ⇒ないとう【内藤】

ないとう‐しんじゅく【内藤新宿】🔗🔉

ないとう‐しんじゅく内藤新宿】 江戸時代、甲州街道の最初の宿駅。江戸四宿の一つ。1698年(元禄11)高遠城主内藤家の下屋敷北側に開設。四谷大木戸から角筈つのはず村までの地(今、東京都新宿区新宿1〜3丁目)で、青梅街道との分岐点。

ないとう‐めいせつ【内藤鳴雪】🔗🔉

ないとう‐めいせつ内藤鳴雪】 俳人。名は素行なりゆき。松山の人。正岡子規に俳句を学んで日本派の重鎮。著「鳴雪俳句集」「俳句作法」「鳴雪俳話」など。(1847〜1926) ⇒ないとう【内藤】

大辞林の検索結果 (8)

ないとう【内藤】🔗🔉

ないとう 【内藤】 姓氏の一。

ないとう-こなん【内藤湖南】🔗🔉

ないとう-こなん 【内藤湖南】 (1866-1934) 東洋史学者。秋田県生まれ。本名,虎次郎。新聞記者として中国論を展開,のち京大教授となり東洋史の京都学派をなした。主著「近世文学史論」「支那史学史」

ないとう-じょうそう【内藤丈草】🔗🔉

ないとう-じょうそう ―ヂヤウサウ 【内藤丈草】 (1662-1704) 江戸前期の俳人。通称,林右衛門。別号,仏幻庵など。尾張犬山藩士。致仕後出家して上洛し芭蕉に入門。蕉門十哲の一人。著「ねころび草」「丈草発句集」など。

ないとう-たちゅう【内藤多仲】🔗🔉

ないとう-たちゅう 【内藤多仲】 (1886-1970) 建築構造学者。山梨県生まれ。早大教授。独自の耐震理論に基づく鉄骨鉄筋コンクリート造で1923年(大正12)旧日本興業銀行本店を完成,関東大震災で耐震理論の有効性を実証した。他に東京タワーを設計。

ないとう-ふうこ【内藤風虎】🔗🔉

ないとう-ふうこ 【内藤風虎】 (1619-1685) 江戸前期の俳人・歌人。奥州磐城平城主。本名,義概(ヨシムネ)。その俳席は門流にかかわらず広く開かれ,江戸初期俳壇の活性化に貢献。著「桜川」

ないとう-めいせつ【内藤鳴雪】🔗🔉

ないとう-めいせつ 【内藤鳴雪】 (1847-1926) 俳人。江戸松山藩邸で生まれる。名は素行(ナリユキ)。四六歳のとき,子規に師事し,日本派の長老として当時を代表した。著「鳴雪俳話」「鳴雪句集」「鳴雪自叙伝」など。

ないとう-ろせん【内藤露沾】🔗🔉

ないとう-ろせん 【内藤露沾】 (1655-1733) 江戸前・中期の俳人。本名,義栄。風虎の二男。父の影響で俳諧を好み,門人の指導も行なった。隠棲後も其角・沾徳ら江戸俳壇と交流。

ないとう-しんじゅく【内藤新宿】🔗🔉

ないとう-しんじゅく 【内藤新宿】 品川・千住・板橋とともに,江戸四駅の一。1698年武蔵国豊島郡(現在の東京都新宿区一〜三丁目)の高遠藩内藤氏下屋敷の近くに新設された甲州街道の第一宿。宿はずれの追分で青梅街道が分岐。江戸の歓楽地として繁栄,商業も盛んであった。

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