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うえすぎ【上杉】🔗🔉

うえすぎ ウヘスギ 【上杉】 姓氏の一。藤原氏勧修寺流。重房が丹波国上杉荘を領してその姓とする。足利氏と姻戚関係を結んで鎌倉時代以降東国に繁栄,関東管領職を相承した。山内・扇谷などの諸流に分かれたが,のち,上杉憲政から越後の長尾景虎(上杉謙信)に名跡が譲られ,その養子景勝の代に会津に封ぜられ,関ヶ原の戦い後米沢に移された。

うえすぎ-うじのり【上杉氏憲】🔗🔉

うえすぎ-うじのり ウヘスギウヂノリ 【上杉氏憲】 (?-1417) 室町中期の武将。法号,禅秀。武蔵・上総(カズサ)の守護。鎌倉公方(クボウ)足利持氏に仕え,関東管領となる。のち,持氏に反逆(上杉禅秀の乱)したが敗れ,自殺。

うえすぎ-かげかつ【上杉景勝】🔗🔉

うえすぎ-かげかつ ウヘスギ― 【上杉景勝】 (1555-1623) 安土桃山・江戸初期の武将。長尾政景の次男。上杉謙信の養嗣子。会津中納言。豊臣秀吉の五大老に列し,会津一二〇万石を領したが,関ヶ原の戦いで石田三成と結んで敗れ,米沢三〇万石に減封された。

うえすぎ-かげとら【上杉景虎】🔗🔉

うえすぎ-かげとら ウヘスギ― 【上杉景虎】 (1553-1579) 戦国時代の武将。北条氏康の子。初名,氏秀。人質として武田信玄の養子となり,のち,上杉謙信の養子となった。謙信の死後,上杉景勝と遺領相続争いに敗れ,自殺。

うえすぎ-けんしん【上杉謙信】🔗🔉

うえすぎ-けんしん ウヘスギ― 【上杉謙信】 (1530-1578) 戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。初名は景虎,のち政虎・輝虎と改名。謙信は法号。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有。小田原北条氏・甲斐武田氏と対抗し,特に,武田信玄との川中島の戦いは有名。

うえすぎ-さだまさ【上杉定正】🔗🔉

うえすぎ-さだまさ ウヘスギ― 【上杉定正】 (1443-1494) 戦国時代の武将。定政とも。扇谷上杉持朝の子。太田道灌を登用して勢威があがったが,山内上杉顕定の中傷によって道灌を暗殺。顕定との交戦中,陣中で没した。

うえすぎ-しげふさ【上杉重房】🔗🔉

うえすぎ-しげふさ ウヘスギ― 【上杉重房】 鎌倉中期の武将。上杉氏の祖。孫清子が足利貞氏に嫁して尊氏・直義を生み,足利氏の外戚として重きをなす。生没年未詳。

うえすぎ-しんきち【上杉慎吉】🔗🔉

うえすぎ-しんきち ウヘスギ― 【上杉慎吉】 (1878-1929) 憲法学者。福井県生まれ。東大教授。天皇主権説に立って憲法を講じ,美濃部達吉の「天皇機関説」を激しく攻撃,国家主義的社会運動を指導した。

うえすぎ-ぜんしゅう【上杉禅秀】🔗🔉

うえすぎ-ぜんしゅう ウヘスギゼンシウ 【上杉禅秀】 上杉氏憲(ウジノリ)の法号。

うえすぎ-のりあき【上杉憲顕】🔗🔉

うえすぎ-のりあき ウヘスギ― 【上杉憲顕】 (1306-1368) 南北朝時代の武将。観応の擾乱で足利直義を支持,尊氏と戦って敗北。尊氏の死後は関東管領,上野・越後の守護。

うえすぎ-のりざね【上杉憲実】🔗🔉

うえすぎ-のりざね ウヘスギ― 【上杉憲実】 (1411?-1466) 室町中期の武将。上杉(山内)憲基の養嗣子。関東管領。将軍足利義教と鎌倉公方(クボウ)足利持氏の間の調停に努めたが,1438年(永享10)の永享の乱で持氏が自殺させられたあと出家し,諸国を行脚した。足利学校の再興者。

うえすぎ-のりまさ【上杉憲政】🔗🔉

うえすぎ-のりまさ ウヘスギ― 【上杉憲政】 (1523-1579) 戦国時代の武将。北条氏康に圧迫されて長尾景虎(上杉謙信)を頼り,のち上杉の名跡と関東管領職を景虎に譲った。

うえすぎ-はるのり【上杉治憲】🔗🔉

うえすぎ-はるのり ウヘスギ― 【上杉治憲】 ⇒上杉鷹山(ヨウザン)

うえすぎ-ようざん【上杉鷹山】🔗🔉

うえすぎ-ようざん ウヘスギ― 【上杉鷹山】 (1751-1822) 江戸中・後期の大名。米沢藩主。名は勝興・治憲(ハルノリ)。鷹山は号。藩政の改革に努め,自らも節倹を率先励行,財政改革・殖産興業・新田開発を行い,藩政を立て直した。藩校興譲館を設立。

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