複数辞典一括検索+

広辞苑の検索結果 (11)

うえすぎ‐かげかつ【上杉景勝】ウヘ‥🔗🔉

うえすぎ‐かげかつ上杉景勝ウヘ‥ 安土桃山時代の武将。長尾政景の子。上杉謙信の養子。謙信の死後、豊臣秀吉に仕え、五大老の一人となり、会津120万石に封ぜらる。関ヶ原の戦に石田三成みつなりと結んだため、米沢30万石に移封。会津中納言。(1555〜1623) ⇒うえすぎ【上杉】

うえすぎ‐けんしん【上杉謙信】ウヘ‥🔗🔉

うえすぎ‐けんしん上杉謙信ウヘ‥ 戦国時代の武将。長尾為景の子。春日山城に拠り、越後を領し、加賀・能登に勢力を張る。初名は景虎。上杉憲政から上杉氏の名跡と関東管領を譲られ、政虎と改名。のち輝虎と改め、剃髪して不識庵謙信と号す。義侠に富み、兵略に長じ、しばしば小田原北条氏および武田信玄と戦った。(1530〜1578) ⇒うえすぎ【上杉】

うえすぎ‐さだまさ【上杉定正】ウヘ‥🔗🔉

うえすぎ‐さだまさ上杉定正ウヘ‥ 室町中期の武将。扇谷おうぎがやつ家の当主として太田道灌を用いて勢威をふるったが、のち讒ざんを信じてこれを殺してから衰え、北条早雲・山内上杉顕定と戦って陣没。(1443〜1494) ⇒うえすぎ【上杉】

うえすぎ‐しげふさ【上杉重房】ウヘ‥🔗🔉

うえすぎ‐しげふさ上杉重房ウヘ‥ 鎌倉時代の武将。上杉氏の祖。もと藤原氏の一流勧修寺氏を称したが、1252年(建長4)宗尊親王に従って鎌倉に下り、武家となり、丹波国上杉荘を与えられる。生没年未詳。 ⇒うえすぎ【上杉】

うえすぎ‐しんきち【上杉慎吉】ウヘ‥🔗🔉

うえすぎ‐しんきち上杉慎吉ウヘ‥ 法学者。福井県生れ。東大教授。極端な君権優位の憲法論を唱え、美濃部達吉の天皇機関説を論難。晩年国粋的な社会運動を起こす。著「国民教育帝国憲法講義」「新稿憲法述義」など。(1878〜1929) ⇒うえすぎ【上杉】

うえすぎ‐ぜんしゅう【上杉禅秀】ウヘ‥シウ🔗🔉

うえすぎ‐ぜんしゅう上杉禅秀ウヘ‥シウ 室町前期の武将。名は氏憲。犬懸上杉家に生まれ、関東管領となったが、1416年(応永23)鎌倉公方足利持氏に叛逆(禅秀の乱)して敗北、自殺。( 〜1417) ⇒うえすぎ【上杉】

うえすぎ‐のりあき【上杉憲顕】ウヘ‥🔗🔉

うえすぎ‐のりあき上杉憲顕ウヘ‥ 南北朝時代の武将。関東管領、伊豆・上野・越後守護。山内上杉氏の祖。建武以後主として関東にあり重きをなした。(1306〜1368) ⇒うえすぎ【上杉】

うえすぎ‐のりざね【上杉憲実】ウヘ‥🔗🔉

うえすぎ‐のりざね上杉憲実ウヘ‥ 室町中期の武将。関東管領。足利学校・金沢文庫を再興。将軍義教と鎌倉公方足利持氏との不和を調停したが、結局は持氏を倒し、その死後剃髪、諸国を行脚。(1410〜1466) ⇒うえすぎ【上杉】

うえすぎ‐のりまさ【上杉憲政】ウヘ‥🔗🔉

うえすぎ‐のりまさ上杉憲政ウヘ‥ 戦国時代の武将。関東管領であったが北条氏康に攻められ、長尾景虎(上杉謙信)を頼って、関東管領職と上杉の姓を譲る。(1523〜1579) ⇒うえすぎ【上杉】

うえすぎ‐ようざん【上杉鷹山】ウヘ‥🔗🔉

うえすぎ‐ようざん上杉鷹山ウヘ‥ 江戸後期の米沢藩主。名は治憲。越前守。日向高鍋藩主秋月種美の次男。重定の養子。細井平洲を師とし、藩政改革を推進。藩校興譲館の設立、節倹の励行、行政の刷新、産業の奨励に努め、荒地開墾に尽力。(1751〜1822) →文献資料[上杉鷹山伝国の詞] ⇒うえすぎ【上杉】

大辞林の検索結果 (14)

うえすぎ【上杉】🔗🔉

うえすぎ ウヘスギ 【上杉】 姓氏の一。藤原氏勧修寺流。重房が丹波国上杉荘を領してその姓とする。足利氏と姻戚関係を結んで鎌倉時代以降東国に繁栄,関東管領職を相承した。山内・扇谷などの諸流に分かれたが,のち,上杉憲政から越後の長尾景虎(上杉謙信)に名跡が譲られ,その養子景勝の代に会津に封ぜられ,関ヶ原の戦い後米沢に移された。

うえすぎ-うじのり【上杉氏憲】🔗🔉

うえすぎ-うじのり ウヘスギウヂノリ 【上杉氏憲】 (?-1417) 室町中期の武将。法号,禅秀。武蔵・上総(カズサ)の守護。鎌倉公方(クボウ)足利持氏に仕え,関東管領となる。のち,持氏に反逆(上杉禅秀の乱)したが敗れ,自殺。

うえすぎ-かげかつ【上杉景勝】🔗🔉

うえすぎ-かげかつ ウヘスギ― 【上杉景勝】 (1555-1623) 安土桃山・江戸初期の武将。長尾政景の次男。上杉謙信の養嗣子。会津中納言。豊臣秀吉の五大老に列し,会津一二〇万石を領したが,関ヶ原の戦いで石田三成と結んで敗れ,米沢三〇万石に減封された。

うえすぎ-かげとら【上杉景虎】🔗🔉

うえすぎ-かげとら ウヘスギ― 【上杉景虎】 (1553-1579) 戦国時代の武将。北条氏康の子。初名,氏秀。人質として武田信玄の養子となり,のち,上杉謙信の養子となった。謙信の死後,上杉景勝と遺領相続争いに敗れ,自殺。

うえすぎ-けんしん【上杉謙信】🔗🔉

うえすぎ-けんしん ウヘスギ― 【上杉謙信】 (1530-1578) 戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。初名は景虎,のち政虎・輝虎と改名。謙信は法号。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有。小田原北条氏・甲斐武田氏と対抗し,特に,武田信玄との川中島の戦いは有名。

うえすぎ-さだまさ【上杉定正】🔗🔉

うえすぎ-さだまさ ウヘスギ― 【上杉定正】 (1443-1494) 戦国時代の武将。定政とも。扇谷上杉持朝の子。太田道灌を登用して勢威があがったが,山内上杉顕定の中傷によって道灌を暗殺。顕定との交戦中,陣中で没した。

うえすぎ-しげふさ【上杉重房】🔗🔉

うえすぎ-しげふさ ウヘスギ― 【上杉重房】 鎌倉中期の武将。上杉氏の祖。孫清子が足利貞氏に嫁して尊氏・直義を生み,足利氏の外戚として重きをなす。生没年未詳。

うえすぎ-しんきち【上杉慎吉】🔗🔉

うえすぎ-しんきち ウヘスギ― 【上杉慎吉】 (1878-1929) 憲法学者。福井県生まれ。東大教授。天皇主権説に立って憲法を講じ,美濃部達吉の「天皇機関説」を激しく攻撃,国家主義的社会運動を指導した。

うえすぎ-ぜんしゅう【上杉禅秀】🔗🔉

うえすぎ-ぜんしゅう ウヘスギゼンシウ 【上杉禅秀】 上杉氏憲(ウジノリ)の法号。

うえすぎ-のりあき【上杉憲顕】🔗🔉

うえすぎ-のりあき ウヘスギ― 【上杉憲顕】 (1306-1368) 南北朝時代の武将。観応の擾乱で足利直義を支持,尊氏と戦って敗北。尊氏の死後は関東管領,上野・越後の守護。

うえすぎ-のりざね【上杉憲実】🔗🔉

うえすぎ-のりざね ウヘスギ― 【上杉憲実】 (1411?-1466) 室町中期の武将。上杉(山内)憲基の養嗣子。関東管領。将軍足利義教と鎌倉公方(クボウ)足利持氏の間の調停に努めたが,1438年(永享10)の永享の乱で持氏が自殺させられたあと出家し,諸国を行脚した。足利学校の再興者。

うえすぎ-のりまさ【上杉憲政】🔗🔉

うえすぎ-のりまさ ウヘスギ― 【上杉憲政】 (1523-1579) 戦国時代の武将。北条氏康に圧迫されて長尾景虎(上杉謙信)を頼り,のち上杉の名跡と関東管領職を景虎に譲った。

うえすぎ-はるのり【上杉治憲】🔗🔉

うえすぎ-はるのり ウヘスギ― 【上杉治憲】 ⇒上杉鷹山(ヨウザン)

うえすぎ-ようざん【上杉鷹山】🔗🔉

うえすぎ-ようざん ウヘスギ― 【上杉鷹山】 (1751-1822) 江戸中・後期の大名。米沢藩主。名は勝興・治憲(ハルノリ)。鷹山は号。藩政の改革に努め,自らも節倹を率先励行,財政改革・殖産興業・新田開発を行い,藩政を立て直した。藩校興譲館を設立。

広辞苑+大辞林上杉で始まるの検索結果。