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ふじわら‐の‐みちかね【藤原道兼】ふぢはら‐🔗🔉

ふじわら‐の‐みちかね【藤原道兼】ふぢはら‐九六一〜九九五]平安中期の公卿。兼家の三男。兄道隆の死後関白に就任したがわずか七日で病没し、世に七日関白と称された。

ふじわら‐の‐みちたか【藤原道隆】ふぢはら‐🔗🔉

ふじわら‐の‐みちたか【藤原道隆】ふぢはら‐九五三〜九九五]平安中期の公卿。兼家の長男。父の死後、弟道兼を退けて、摂政・関白となった。娘定子は一条天皇の皇后。中関白(なかのかんぱく)

ふじわらのみちつな‐の‐はは【藤原道綱母】ふぢはらのみちつな‐🔗🔉

ふじわらのみちつな‐の‐はは【藤原道綱母】ふぢはらのみちつな‐?〜九九五]平安中期の歌人。倫寧(ともやす)の娘。藤原兼家の妻となり、右大将道綱を生んだ。「蜻蛉日記」の作者。家集に「道綱母集」がある。

ふじわら‐の‐みちとし【藤原通俊】ふぢはら‐🔗🔉

ふじわら‐の‐みちとし【藤原通俊】ふぢはら‐一〇四七〜一〇九九]平安中・後期の歌人。白河天皇の命により、「後拾遺集」を撰進。歌は「後拾遺集」などにみえる。

ふじわら‐の‐みちなが【藤原道長】ふぢはら‐🔗🔉

ふじわら‐の‐みちなが【藤原道長】ふぢはら‐九六六〜一〇二七]平安中期の公卿。兼家の五男。娘を次々と后に立て、外戚となって内覧・摂政・太政大臣を歴任、権勢を振るい、栄華をきわめた。晩年に出家し、法成寺を造営。関白になった事実はないが御堂関白と称された。日記「御堂関白記」がある。

ふじわら‐の‐みちのり【藤原通憲】ふぢはら‐🔗🔉

ふじわら‐の‐みちのり【藤原通憲】ふぢはら‐一一〇六〜一一五九]平安後期の公卿。出家して法号を円空、のち信西(しんぜい)と称し、僧の身で後白河天皇の腹臣として活躍。平治の乱で捕らえられて処刑された。著に「本朝世紀」「法曹類林」などがある。

ふじわら‐の‐むちまろ【藤原武智麻呂】ふぢはら‐🔗🔉

ふじわら‐の‐むちまろ【藤原武智麻呂】ふぢはら‐六八〇〜七三七]奈良初期の公卿。不比等(ふひと)の長男。南家の祖。大納言・右大臣などを経て左大臣になったが、疫病で死亡。

ふじわら‐の‐もといえ【藤原基家】ふぢはら‐もといへ🔗🔉

ふじわら‐の‐もといえ【藤原基家】ふぢはら‐もといへ一二〇三〜一二八〇]鎌倉中期の歌人。良経の子。正二位内大臣。「続古今和歌集」の撰者の一人。

ふじわら‐の‐もとつね【藤原基経】ふぢはら‐🔗🔉

ふじわら‐の‐もとつね【藤原基経】ふぢはら‐八三六〜八九一]平安前期の公卿。諡号(しごう)、昭宣公。通称、堀河太政大臣。叔父良房の養子となり、応天門の変で伴善男を失脚させ、また、光孝・宇多両天皇を擁立して最初の関白となり、娘温子を女御とするなど、藤原北家の権力を固めた。「文徳実録」を撰進。→阿衡(あこう)事件

大辞泉 ページ 13105