複数辞典一括検索+![]()
![]()
広辞苑の検索結果 (15)
にじょう【二条】‥デウ(地名)🔗⭐🔉
にじょう【二条】‥デウ
平安京の東西に通じた大路の一つ。二条大路。京都市二条通。
⇒にじょうがわら‐の‐らくしょ【二条河原の落書】
⇒にじょう‐じょう【二条城】
⇒にじょう‐じょうだい【二条城代】
⇒にじょう‐じょうばん【二条城番】
にじょう【二条】‥デウ(姓氏)🔗⭐🔉
にじょう【二条】‥デウ
姓氏の一つ。五摂家の一つ。九条道家の子良実よしざね(1216〜1270)が二条京極に住んだのに始まる。→五摂家(系図)。
⇒にじょう‐け【二条家】
⇒にじょう‐ためさだ【二条為定】
⇒にじょう‐ためよ【二条為世】
⇒にじょう‐でんじゅ【二条伝授】
⇒にじょう‐は【二条派】
⇒にじょう‐よしもと【二条良基】
にじょう‐おおむぎ【二条大麦】‥デウオホ‥🔗⭐🔉
にじょう‐おおむぎ【二条大麦】‥デウオホ‥
オオムギの一変種。花穂かすいの両側の3列の小穂のうち、中央のものだけ結実して2条に配列、また長芒を有するから、穂は矢羽状を呈し矢羽根大麦と呼ばれた。ビールの原料に適し、ヨーロッパで広く栽培。矢羽麦。
にじょうがわら‐の‐らくしょ【二条河原の落書】‥デウガハラ‥🔗⭐🔉
にじょうがわら‐の‐らくしょ【二条河原の落書】‥デウガハラ‥
建武元年(1334)8月頃、京都二条河原に立てられたといわれる落書。「此比このごろ都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨にせりんじ」の句で始まり、当時の政府や世情を鋭く諷刺した好史料。口遊くちずさみと題し「建武年間記」に収める。
→文献資料[二条河原の落書]
⇒にじょう【二条】
にじょう‐け【二条家】‥デウ‥🔗⭐🔉
にじょう‐け【二条家】‥デウ‥
藤原俊成・定家の子孫で為氏を祖とする和歌の家筋。京極・冷泉両家と対立。平淡美歌風を唱えて保守的傾向をもち、代々、勅撰集の撰者を出す。南北朝時代に絶家。細川幽斎ら二条派の活動は古今伝授の学統として近世まで及ぶ。
⇒にじょう【二条】
にじょう‐じょう【二条城】‥デウジヤウ🔗⭐🔉
にじょう‐じょう【二条城】‥デウジヤウ
①1569年(永禄12)織田信長が足利義昭のために築いた将軍邸。義昭の京都脱出後は誠仁さねひと親王(陽光院)の御所となったが、本能寺の変で焼失。京都市上京区に二重堀石垣の埋没が確認されている。
②京都における徳川氏の城郭。京都市中京区にある。徳川家康が京都の警衛並びに上洛時の宿所として1602年(慶長7)起工し、翌年竣工。維新後、離宮。のち京都市に移管。
⇒にじょう【二条】
にじょう‐じょうだい【二条城代】‥デウジヤウ‥🔗⭐🔉
にじょう‐じょうだい【二条城代】‥デウジヤウ‥
江戸幕府の職名。二条城諸門の警衛をつかさどった。1625年(寛永2)設置、99年(元禄12)廃止。
⇒にじょう【二条】
にじょう‐じょうばん【二条城番】‥デウジヤウ‥🔗⭐🔉
にじょう‐じょうばん【二条城番】‥デウジヤウ‥
江戸幕府の職名。京都所司代支配の下に二条城門の守衛をつかさどった。二条城代が廃されてからその職務も引き継ぐ。初め大番組の交替制で二条在番とも称し、1862年(文久2)常設の二条定番となる。
⇒にじょう【二条】
にじょう‐ためさだ【二条為定】‥デウ‥🔗⭐🔉
にじょう‐ためさだ【二条為定】‥デウ‥
鎌倉末・南北朝期の歌人。法名、釈空。御子左みこひだり大納言。のち出家。続後拾遺集・新千載集の撰者。(1293〜1360)
⇒にじょう【二条】
にじょう‐ためよ【二条為世】‥デウ‥🔗⭐🔉
にじょう‐ためよ【二条為世】‥デウ‥
鎌倉後期の歌人。藤原為氏の長男。権大納言。新後撰集・続千載集を撰。京極為兼と対立。歌論書「延慶両卿訴陳状」「和歌庭訓」など。(1250〜1338)
⇒にじょう【二条】
にじょう‐でんじゅ【二条伝授】‥デウ‥🔗⭐🔉
にじょう‐でんじゅ【二条伝授】‥デウ‥
二条派における古今伝授。東常縁とうのつねより・宗祇・三条西実隆・同公条きんえだ・同実枝・細川幽斎に伝わる。
⇒にじょう【二条】
にじょう‐てんのう【二条天皇】‥デウ‥ワウ🔗⭐🔉
にじょう‐てんのう【二条天皇】‥デウ‥ワウ
平安後期の天皇。後白河天皇の第1皇子。名は守仁もりひと。六条天皇に譲位。二条の皇居で没す。治世中、父上皇が院政。(在位1158〜1165)(1143〜1165)→天皇(表)
にじょう‐の‐だじょうだいじん【二条太政大臣】‥デウ‥ジヤウ‥🔗⭐🔉
にじょう‐の‐だじょうだいじん【二条太政大臣】‥デウ‥ジヤウ‥
源氏物語中の人物。朧月夜尚侍のもとに忍んできた光源氏を見つけ、源氏の須磨退隠となる。
にじょう‐は【二条派】‥デウ‥🔗⭐🔉
にじょう‐は【二条派】‥デウ‥
中世の歌道師範家二条家系統の和歌の流派。
⇒にじょう【二条】
にじょう‐よしもと【二条良基】‥デウ‥🔗⭐🔉
にじょう‐よしもと【二条良基】‥デウ‥
南北朝時代の歌学者・連歌作者・故実家。諡おくりなは後普光園院。初め後醍醐天皇に、のち北朝に仕え、摂政関白となる。二条派の和歌の復興を計り、頓阿と和歌の奥旨を問答した形の「愚問賢注」を著し、また、救済きゅうせいとともに「
玖波つくば集」を撰し、「連歌新式」を制定、連歌道を興隆。(1320〜1388)
→文献資料[菟玖波集]
⇒にじょう【二条】
玖波つくば集」を撰し、「連歌新式」を制定、連歌道を興隆。(1320〜1388)
→文献資料[菟玖波集]
⇒にじょう【二条】
大辞林の検索結果 (13)
にじょう【二条】🔗⭐🔉
にじょう ニデウ 【二条】
平安京の条坊の一。また,東西に通じる大路の名。二条大路。
にじょう-じょう【二条城】🔗⭐🔉
にじょう-じょう ニデウジヤウ 【二条城】
京都市中京区にある城。1603年,京都の警衛と上洛の際の宿所のために徳川家康が創建。二度の火災で,天守・本丸を焼亡。二の丸御殿に桃山時代の様式をもつ書院など,江戸初期の遺構を残す。二の丸庭園は小堀遠州の作。
にじょう-じょうだい【二条城代】🔗⭐🔉
にじょう-じょうだい ニデウジヤウ― [4] 【二条城代】
江戸幕府の職名。京都の二条城の警備にあたった。1625年設置,99年廃止され,二条城番に代わった。
にじょう-じょうばん【二条城番】🔗⭐🔉
にじょう-じょうばん ニデウジヤウ― [4] 【二条城番】
江戸幕府の職名。1699年から二条城代に代わって京都二条城の警備にあたった。
にじょう-どおり【二条通り】🔗⭐🔉
にじょう-どおり ニデウドホリ 【二条通り】
京都市街を東西に走る通りの一。東は白川通りから西は佐井(サイ)通りに至る。寺町通り以西は平安京の二条大路にあたる。
にじょう【二条】🔗⭐🔉
にじょう ニデウ 【二条】
姓氏の一。
(1)藤原北家の流。五摂家の一。鎌倉中期に九条道家の子,良実が関白となり,分かれて一家を立てたのに始まる。名称は良実が居所の東二条院にちなんで二条殿を称したのに由来。
(2)歌道の家。藤原氏御子左家(ミコヒダリケ)の為家の子,為氏を祖とするが,その子為世から二条家を称した。勅撰集の撰者を多く出したが,室町中期には絶えた。
にじょう-ためよ【二条為世】🔗⭐🔉
にじょう-ためよ ニデウ― 【二条為世】
⇒藤原(フジワラ)為世
にじょう-でんじゅ【二条伝授】🔗⭐🔉
にじょう-でんじゅ ニデウ― [4] 【二条伝授】
古今伝授の一。東常縁(トウノツネヨリ)から宗祇を経て,三条西実隆・公条(キンエダ)・実枝・細川幽斎に至る二条派歌人に伝えられたもの。二条家伝。
にじょう-は【二条派】🔗⭐🔉
にじょう-は ニデウ― 【二条派】
鎌倉後期の二条為世の唱える風体を守った和歌の一派。京極・冷泉の各派と対立しその歌風は保守的であるが,中世から近世にかけて歌壇の主流となった。
にじょう-よしもと【二条良基】🔗⭐🔉
にじょう-よしもと ニデウ― 【二条良基】
(1320-1388) 南北朝時代の歌人・連歌作者。関白道平の子。和歌を頓阿に学び二条派を再興。連歌は救済(キユウセイ)を師としてともに「菟玖波集」を編纂(ヘンサン)し,式目を制定するなど,連歌文芸の基本的性格を示した。有職(ユウソク)故実にも通じた。著「愚問賢註」「近来風体抄」「応安新式」「連理秘抄」「筑波問答」など。
にじょういん-の-さぬき【二条院讃岐】🔗⭐🔉
にじょういん-の-さぬき ニデウ
ン― 【二条院讃岐】
⇒讃岐(サヌキ)
ン― 【二条院讃岐】
⇒讃岐(サヌキ)
にじょう-おおむぎ【二条大麦】🔗⭐🔉
にじょう-おおむぎ ニデウオホムギ [4] 【二条大麦】
オオムギの系統で,穎果(エイカ)が果軸の両側に二列に並んで,扁平な穂となるもの。主にビール製造に用いられる。ヤバネオオムギ。
にじょう-てんのう【二条天皇】🔗⭐🔉
にじょう-てんのう ニデウテンワウ 【二条天皇】
(1143-1165) 第七八代天皇(在位 1158-1165)。名は守仁(モリヒト)。後白河天皇第一皇子。在位中,父上皇の院政に抗し,天皇親政をはかったという。
広辞苑+大辞林に「二条」で始まるの検索結果。